AIで、作ることはほとんどタダになった。おかげで、昔ならPRDのたたきで止まっていた話が、いきなりPRで届くようになった。ちゃんと動くし、それっぽい。でも、そもそも要るのかはまだ誰も考えていない。
なので、「これで十分」と線を引くことについて雑に考えてみる。
手間がふるいになっていた
前は作るのに手間がかかったので、手をつける前に「これ、本当に要る?」と考えていた。面倒だから、自然と削れていた。
AIでその手間がなくなって、削るタイミングもなくなった。
今は、意味のないものも、意味のあるものと同じ見た目、同じ速さで出てくる。ワークスロップ(それっぽいけど中身のない成果物)という言葉もある。見た目で区別できないので、誰かが意識して止めるしかない。
たとえば、こんな感じ。
設計図を頼んだら
- 01
見たかったもの
まず設計図で確認したかった
- 02
届いたもの
もう小屋が建っている。煙突も旗もある
- 03
レビュー
見るところが多くて大変。でも、見たかったのは設計図だったはず
どこで止めるかを、AIは決めてくれない
AIに頼めば、いくらでも足してくれるし、直してもくれる。でも、どこで止めるかは決めてくれない。十分かどうかは目的で決まる。で、目的を持っているのは人だ。
作る力は余っている。足りないのは、「ここまででいい」と決めて、その責任を持つこと。
Enough、Less is more、エッセンシャル思考、ROI、コスパ、タイパ。言い方は違っても、目的から見て線を引く、という点では同じだ。
量は相手の時間を使う
作ったものは、誰かが読んで、判断して、使って、やっと意味がある。でも、読む人の時間は増えない。
作るのは一瞬でも、読む側はそうはいかない。五行で済む話を何ページにもすれば、その分だけ相手の時間を使わせる。
以前「Own What AI Says」で、AIが肩代わりできないのは人の注意(アテンション)かもしれない、と書いた。そう考えると、良い仕事って、相手の時間をあまり使わずに何かを変えられることなのかもしれない。線を引くのは、相手のためでもある。
なんで線が引けないのか
線が引けない理由は、ひとつではない気がする。
まず、目的が決まっていない。何のために作るのかがぼんやりしていると、どこまでやれば足りるのかもわからない。だから、やめどきがない。
次に、わかっていない。AIは答えをくれるけど、理解まではくれない。要点がわかっていないと、どこを削っていいかもわからない。だから不安になって、全部入れたくなる。
そして、引き受けたくない。削ると、それは自分が決めたことになる。外れたら自分のせいだ。全部入れておけば「書いてはあります」と言えるので、ちょっと安心できる。
理解しないまま積んだものは、動いているうちは困らない。困るのは、変えたいときや「なんでこうなってるの?」と聞かれたときだ。技術的負債が「雑に作った」ことの借金なら、これは「自分で考えなかった」ことの借金で、最近は理解負債と呼ばれたりしている。
作業はAIに任せていい。でも、何が目的で、なぜこれで足りるのか、外れたら誰が責任を持つのかまで任せると、線を引ける人がいなくなる。
どこで止めるかに考えが出る
何でもできるようになると、何を選んでどこで止めるかに、その人の考えが出る。
量を減らすことと、自分で考え続けることはつながっている。
AIをうまく使う力は、AIフルーエンシーと呼ばれたりする。何をどう頼むか、みたいな話だ。でも線を引くのに要るのは、どちらかというとAIに任せない方の力な気がする。目的を決める、わかる、引き受ける、の三つ。
作業がほとんどタダになったぶん、この三つの出番は前より増えていると思う。あと、三つはセットで効く。わかっていないのに引き受けると、雑に決め打ちするだけになる。わかっていても引き受けないと、結局全部入れることになる。
自戒
偉そうに書いたけど、開発はもうだいぶこうなっている。コードもPRもいくらでも出てくるのに、それを読んで、要るかどうか判断する人は増えていない。気づいたら、誰も全体をわかっていないコードが溜まっている。
別に昔に戻りたいわけではない。いっぱい作れるのは普通にいいことだと思う。ただ、どこで止めるかを考える場面は前より増えた。
自分もよく足しすぎている。なんでも作れると、つい足してしまう。
「これで十分」って、ちゃんとわかったうえで言えるようになりたいなと思う。